2017年05月05日

ワシントンポスト誌 広島:懸念される招待 ブレイン ハーデン

オバマ氏は初めての東アジア訪問において、被爆都市を訪れることを拒否しました。

  広島 日本― 金曜日、日本到着時、都合の悪い招待がオバマ大統領を待ち受けていました。どの現職大統領も今まで出席に応じておらず、日本滞在中のハードスケジュール故、都合のつかない招待でした。
  それでも多くの日本人はその招待について今年は何度も語ってきました。そして今も続いています:64年前、広島、長崎にアメリカの原爆が何をもたらしたか来て、見てください―と。

  オバマ氏は、核のない世界について感動的な演説をしました。 また、2009年ノーベル平和賞を突然受賞しました。彼が過去を断ち切り、人類への唯一原爆使用国アメリカによる兵器で破壊された都市を訪問するという期待感は日本中で盛り上がりました。

  「なされたことはなされた」広島で生まれ当地の大学に通う有働はるなさん19歳は語ります。「私は、謝罪は必要としませんが、原爆投下があなた方にどういったことを起こしえるか見たことがないなら、来て見るべきです。」

  容易ではない関係
  オバマ氏の東京滞在は24時間以内の予定です。大統領として最初の東アジア訪問ですが、彼は”今回”は招待を受けられないと言っています。しかし火曜日日本でテレビ放送されたインタビューでは、「私の大統領任期のある時点でこれらの都市を訪れる機会を持つことを心に留めています。」と語った。

  大統領の広島、長崎訪問の可能性について日本側の焦点は、緊密なアジアの同盟関係において生じた緊張感とゆるぎない強固さに現れています。

  7月のピュー調査センターの調査によると、日本人の85%がオバマ氏は世界情勢に対して正しい対処をしてくれると信じているとして、日本人から大いに敬意を持たれています。また調査によると1年前、わずか25%の人が、ブッシュ大統領に対して同様な気持ちを持っていました。

  しかしアメリカに対してはあまり信頼していません。ピューの調査の3分の2以上がアメリカの経済的影響が日本にとってはマイナスだと言っています。昨年秋日本のアメリカ向け輸出の急落が、半世紀余ぶりに貿易依存国を大きな経済的苦境に追い込んだことを反映しているようだ。

  新首相の鳩山由紀夫氏は公にはオバマ氏を賞賛しているものの、アメリカとの関係がやや受身だと、捉えていることから抜け出そうとしています。つまり戦時における国家防衛が条約によって束縛されていると捉えています。

  どのために、アフガニスタンにおける米主導の連合軍を支えるインド洋の戦艦への8年間続いた燃料補給をまもなく終わらせようとしています。また日本国内のアメリカ海軍航空基地を移設し8000人の海兵隊員を日本からグァムへ移動させる260億ドルの計画を再開しようとしています。日米は2006年に取り決めに合意し、オバマ政権は鳩山氏の一部再交渉の要望にいらだっています。

  この未解決問題は日米同盟において深刻な障害となり、オバマ氏の東京での話し合いにおいても焦点となるのは確実です。

  グランドゼロ
  こうした交渉の中でありそうもないのはオバマ氏の広島長崎への招待です。にもかかわらず、新聞の社説、教室での討論、夕食時の論争において訪問の可能性の話題は盛んに行われています。オバマ氏のノーベル賞受賞はその期待を高めています。

  「過去のノーベル賞受賞者の多くはグランドゼロを訪れた」と東京からおよそ南西530マイルにある広島の中国新聞の社説は述べている。「私たちはぜひ彼自身で来て、見て、核の無い世界への深いかかわりを再認識してほしい。」

  多くの日本人の意見の中で、ノーベル賞より重要なのはプラハのアメリカが”核無しで世界の平和と安全を求める”演説だった。 そのスピーチで、「アメリカは-行動する道徳的責任がある」と述べた。 ”唯一核兵器を使った国だからだ。”

  広島では、こうした言葉は被爆から生き残った人たちを驚かせ、喜ばせた。坪井すなおさんは20才の時、爆心地から半マイルほどのところに住んでいました。閃光からの熱は彼の顔、背中、腕の皮膚を焼き、耳は溶かされてしまった。それ以来、彼は輸血を必要とする前立腺がん、大腸がん、慢性的貧血を患ってきた。

  こうした兵器に関するオバマ氏の姿勢は私たちのものととても近いと、被爆者グループのリーダー84歳の坪井氏は言う。「被爆者たちは長く生きることができません。オバマ氏もそのことを知っていると思います。私たちは彼が来てくださることを強く願っています。」

  しかし広島が焼かれた後の数十年間、第二次世界大戦後の長く引きずられた問題に取り組む時、日米首脳には限られた選択肢しかなく、政治的現実をいまだ克服することができていません。

  日本の首相は、アメリカを戦争へと向かわせた1941年12月7日のパールハーバー奇襲に関して、その地を訪れることも謝罪をすることもありませんでした。

  アメリカでは、日本の被爆者の苦しみに注目することは政府の原爆使用決定を不適切に批判することになると見られてきました。1995年、スミソニアン国立航空宇宙博物館は議員81名の圧力があり、原爆投下の道義的責任を問うことになる展示を廃止しました。2003年、どれほど多くの人が死んだか語る広島原爆投下に使われた飛行機、エノラゲイの展示への提案をこの博物館は拒否しました。

  1945年8月6日に原爆が投下されおよそ140000人が亡くなり、3日後長崎での原爆投下で80000人死亡しました。6日後第二次世界大戦は日本の無条件降伏で終わりました。

  広島では、公然とオバマ氏への招待は続いています。招待を受け入れる時期が見つからないのは彼1人ではありません。広島市の平和推進課によると、核兵器保有国の現職首脳は、死者の名前が列挙された記念碑をだれも訪れていません。
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2009年07月21日

共同通信ニュース-焦点- 原爆漫画『はだしのゲン』アメリカ人読者のアイオープナーとなる

 1945年アメリカは広島に原爆投下した。 その後一人の少年の原爆後の経験を10巻からなる漫画で描いた。アメリカの読者にとって、日本のこの漫画から核兵器の破壊力について知ることは驚愕すべき経験である。

 中沢啓治氏の自伝的劇画『はだしのゲン』はすでに、フランス語、朝鮮語、ロシア語、スペイン語、タイ語、エスペラントも入れ、その他の言語に翻訳されている。
 ニュージャージー、ホースローンの保険代理店オーナーのメアリー キャロル50歳はネットで入手できる4巻を買い、この原爆を生き伸びた少年の話に夢中になった。
 「はだしのゲンを読むまで、私は罪のない人々の苦しみを理解していませんでした。これは小学校や高校で学び語ったことではありませんでした。」とキャロルさんは共同通信にメールで語ってくれました。
 「これは私のとって恐ろしいことです。また広島や長崎がまた起きるかもしれません。ここアメリカにいる人たちは戦争の破壊性を知り理解することさえないのです。『はだしのゲン』は私たちにとって目撃者なのです。」と彼女は書いています。

 70歳になる中沢氏は爆心地からおよそ1.2キロのところで被爆しましたが、奇跡的に崩壊したコンクリートの塀の下で助かりました。1メートル先に立っていた同級生のお母さんは彼の目の前で焼け死んだと彼は言っています。
 中沢氏とこの漫画の翻訳チームは、4月プラハで核兵器の無い世界ついてスピーチしたアメリカ大統領バラクオバマ氏と家族に英語版全10巻を今月末に送ろうと計画しています。
 中沢氏は、オバマさんとお嬢さんがたが私の本を読む機会を持って欲しいと願っています。

 石川県金沢市の翻訳グループ、プロジェクトゲンによると、英語版全10巻は7月26日までに完成し8月にはアメリカでも入手可能となるといっています。
 サンフランシスコ、ラストギャスプ社の英語版出版に関わるコリン ターナー氏も初めてこの漫画を読んだ時感動しました。
 「深い感動を私に残しました。読んだだれもがそうでしょうが。」と電話およびメールインタビューでこの本を出版しようと決めた理由を語っています。
 漫画のかたちであることで、若い人たちにとって戦争と原爆の恐ろしい真実を理解しやすくしてくれる―とターナー氏は言います。事実『はだしのゲン』は大学、高校でテキストとして使われ広く読まれています。

 サンフランシスコ郊外のダイアブロバレー大学の英語准教授のアダムベッシー氏29歳は「文学としての劇画」という講座で『はだしのゲン』第1巻をテキストとして選びました。18歳から25歳までの学生が学んでいるそうです。
 アメリカでは大学レベルで漫画を使うことにはアカデミック的偏見がありますが、『はだしのゲン』は学生に対してとても教育的だと彼は言っています。
 「学生たちは明らかに、中沢氏の恐ろしい体験と原爆の劇画に影響を受けています。彼らは私が選んだどのテキストに関するディスカッションと同じくこの本に関して長い議論をし、その中でこの影響について語っています。」彼はメールで語っています。
 感情的な反応を超越して、戦争の本質について思慮深い議論をしました。中沢氏の経験だけではなく今起こっている一般的な戦争についても議論しています。
 大学生のキールパウエル24歳は数年前にベッシー氏の講座を受講し、メールメッセージで以下のように語りました。「溶けていく顔を持った日本人を見ることで私は仰天し、開いた口がふさがりませんでした。」
 『はだしのゲン』は読者に抑圧された感情を経験させます。また、破壊的な核兵器は不必要で、破壊の結果はいかにひどいものであるか理解させてくれます。
 フレデリックスコット59歳は二巻目の翻訳にかかわり、また旭日章を受賞しています。彼は『はだしのゲン』のアメリカへの影響を別の角度から述べています。
 「私は、『はだしのゲン』はアメリカの劇画発展に実際影響があったといっていいと思います。というのはアメリカでは決して大きな商業的成功は無かったものの、アメリカ人の芸術家がより長い、より複雑なストーリーに挑戦をさせる気にしたのです。」質問に答えてメールで返答しました。
 一例はアートスピーゲルマンでしょう。彼は第二次世界大戦についての小説的作品MAUSでピューリツァー賞を受賞しました。それは漫画又は劇画といえます。
 中沢氏はご母堂が1971年60歳で亡くなられた後被爆経験を描こうと決意しました。
 「火葬された後、母の骨が消えていたのを見た時、たぶん放射能の影響でしょうが、原爆が母の骨さえ奪い取るのかと怒りでいっぱいになりました。」
 70年代初期漫画週刊誌に『はだしのゲン』を書き始めました。そして日本人読者の心を奪う話の展開と恐ろしい芸術形式で夢中にさせました。

 第一回目の英語版プロジェクトは1977年ごろ日本で、アメリカ人と日本人の学生によって始められました。
 アラングリーソン57歳東京在住は、そのプロジェクトの創設メンバーです。コンピューターの無い頃、日本の漫画を英語に翻訳する様子を回想していました。
 大変だったのは手作業でした。画像を切り取り、それを反対にして貼り付けました。右から左に読む代わりに左から右に読むアメリカ漫画のようにするためでした。
 グリーソン氏によると、そのプロジェクトによる1~4巻は、70年代後半から10年ほどにわたり小さな出版社から出版されました。
 2000年、金沢ロシア語センターで仕事をしていたプロジェクトゲンの代表者で、現在66歳の浅妻南海江さんがロシア語版完成の後、7人のボランティアと共に別の英語翻訳本に取り掛かりました。
 ターナー氏によれば、プロジェクトゲンとラストギャスプ社は2004年新訳で再出版することに合意しました。
 浅妻さんにとって、翻訳者として最も報われたと感じる瞬間は、読者からの励ましの手紙を読む時です。
 「彼らの手紙を読む時、大変だったことが価値のあるものだと感じます。」と彼女は語ります。
 イギリス ウエストサセックスの24歳のベンさんの『はだしのゲン』について手紙を最近受け取りました。
 「ゲンの話は、力強く、感情に富み、すごいことです。すべての国の政府と兵士に、またこんなことが起こらないようにこの本を渡すことができたらいいと思います。」

 ターナー氏はこの読者の気持ちに対して、『はだしのゲン』が広く読まれることを強く願っています。彼は広島長崎の原爆からほぼ65年経ち世界は核兵器の恐ろしさを忘れているのではないこと恐れているのです。
 「残念ながら、私たちは、不安定な状況の中核兵器を持つ国があり、かつてなく核爆弾の脅威にさらされています。」と彼は言います
英語原文
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